仲哀天皇|神の逆鱗に触れて命を落としたとされる天皇

2021年1月9日

仲哀天皇の史実の中で驚くべきは、ご逝去に関する話です。
なんでも神の逆鱗に触れて命を落とした天皇として記されているのですが・・・なぜそのように命を終えてしまったのでしょうか?

第14代 仲哀天皇(ちゅうあい)

仲哀天皇【諡号】 足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)
【生没】 生年不詳~200年
【在位】 192年~200年
【父】 日本武尊(第2子)
【母】 両道入姬命(垂仁天皇の娘)
【陵】 恵我長野西陵(大阪府藤井寺市藤井寺)

「日本書紀」に記されている内容によれば、第13代成務天皇には嗣子がおらず、甥の仲哀天皇が成務天皇48年3月1日に立太子となったとあります。
この時、仲哀天皇は31歳でした。
13年の皇太子時代の後、仲哀天皇元年1月に天皇へと即位しました。

景行天皇43年、仲哀天皇の父である日本武尊は命を終えて白鳥となって天に昇ったとされており、父を偲ぶためにも、諸国に白鳥を献上することを命じました。
この時、越国が献上した白鳥を異母弟・蘆髪蒲見別王(あしかみのかまみわけのみこ)が略奪しており、仲哀天皇は蘆髪蒲見別王を誅殺しています。

仲哀天皇2年の1月、成務天皇40年産まれの「氣長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」を皇后として迎えました。

神の逆鱗に触れて命を落としたという史実

仲哀天皇が皇后として迎えた「氣長足姫尊」は神功皇后とも呼ばれていますが、気長宿禰王(おきながすくねのおおきみ)の娘でした。

成務天皇と同様に仲哀天皇は滋賀県・高穴穂宮(たかあなほのみや)を都とし、日本統一に関して大臣の武内宿禰と話し合いを続けていました。

その時、神功皇后に突然、住吉大神の神託が下り、こう進言し始めました。

神功皇后:「西海の宝の国(新羅国)を授ける」

さらにこんな神託も降っています。

神功皇后:「熊襲征伐よりも、新羅を先に打て」

けれどもその信託を仲哀天皇は信じなかったために、神がお怒りになり急死してしまったのです。

塵輪討伐伝説

塵輪島根県石見地方や山口県下関市で執り行われる石見神楽に「塵輪(じんりん)」という演目があります。

史実では仲哀天皇は神の信託を信じず、神の怒りに触れて急死したとされますが、日本書紀には仲哀天皇は熊襲討伐中に流れ矢にあたって崩じたとも記されています。
これは石見神楽の「塵輪」に基づいた記述ではないかと云われています。

凶酋塵輪は新羅国の鬼で、8つの鬼の顔からなる怪物です。
仲哀天皇7年(西暦198年)、この塵輪が熊襲(くまそ)を扇動して仲哀天皇の仮皇居であった豊浦宮に攻め込んできました。
黒雲に乗って空から攻撃する塵輪に阿部高麿(安倍高丸)、弟助麿助丸(助丸)に門を守らせましたが、相次いで討死します。
仲哀天皇は「空から射かける者、尋常の者にあらず。 我が身をもって征伐せしめよう。」とおっしゃると、自ら弓矢をとって塵輪を射落としました。

しかし、何があったか流れ矢が仲哀天皇の御身を傷付け、崩じたというのです。

神宮皇后が神託通りに三韓へ出兵

神宮皇后夫に先立たれた神功皇后は、神託の通りにすべく武内宿禰(竹内宿禰)を伴って対馬へ向かいました。
旅の途中では海の神・風の神、魚たちの助けを受けながら新羅へ。
船団による津波で新羅は浸水し、新羅王がまず神功皇后に降伏します。
すると新羅王降伏の一報を耳にした高句麗王、百済王も降伏したのです。
争いを起こすことなく、神の神託通りに船を進めて朝鮮3国を支配下においたという史実が残されています。

この出兵によって朝鮮半島新羅での日本領「内官家屯倉(うちつみやけ)」が誕生したという史実もあるのですが、現在では仲哀天皇も神功皇后も実在していなかったという説が有力とされていて歴史書に描かれている三韓出兵は創作だという説も有力です。

ちなみに神功皇后は「卑弥呼なのでは?」という説も上がっています。

恵我長野西陵

遺跡名「岡ミサンザイ古墳」が仲哀天皇の御陵として定められています。
大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)は墳丘長242mの前方後円墳であり周濠も幅50m以上となっています。
古事記では「御陵は河内の恵賀(えが)の長江にあり」と記されており、日本書紀では「河内国長野陵」とも記されています。
中世の頃には城砦に使われいたこともあり、一部改修されているところもあります。