景行天皇|熊襲討伐、そして日本武尊の父である人物
歴代天皇の中でも随一の子沢山なのが景行天皇であり、熊襲討伐で知られる日本武尊の父であるという、実に男らしさが印象的な天皇でもあります。
そんな景行天皇の史実をまとめていきます。
第12代 景行天皇(けいこう)
【諡号】 大足彦忍代別天皇
【生没】 紀元前13年~後130年
【在位】 71年~130年
【父】 垂仁天皇(第3皇子)
【母】 日葉酢媛命(丹羽道主王の娘)
【陵】 山辺道上陵(奈良県天理市渋谷町)
歴代天皇の中でも精力溢れる人物だったとされる景行天皇。
10人もの后妃を迎え、子供はなんと80人ももうけていると言うから驚きです。
景行天皇は天皇支配を進めるべく地方の豪族討伐にも積極的で、特に九州や中国地方への征伐は熾烈を極めていたとされています。
地方豪族でもなのある周防国・神夏磯媛、豊後国・土蜘蛛、日向国・熊襲梟帥を討伐したのも景行天皇天皇であり、地方豪族討伐のために地方に数年ほど滞在する力の入れようだったとか。
景行天皇の御子、大碓命と小碓命
景行天皇はある時、兄比売・弟比売(えひめ・おとひめ)と言う美しい娘たちの噂を耳にします。
とても美しい姿をしているとのことで、景行天皇は乙女たちを后妃として迎えるために、御子の大碓命(おおうすのみこと)に娘たちを呼び寄せるよう命じました。
父親である景行天皇から乙女たちを連れてくるよう名ぜされた大碓命ですが、美しい乙女たちを我がものとして結婚し、景行天皇には別の女性を献上しています。
けれども景行天皇は、献上された乙女たちが兄比売・弟比売ではないことを悟り、献上された姉妹を后妃にはしていません。
このやりとりに関して、景行天皇は小碓尊(おうすのみこと)にこんな質問をしています。
景行天皇:「なぜお前の兄・大碓命は私の前に出てこないのだ? さてはお前、兄に何も教えていないな?」
すると小碓尊はこう答えました。
小碓尊:「すでに兄は懇ろに教え諭しております」
すると天皇はふと疑問に感じたことを尋ねました。
景行天皇:「どんな風に兄に教え諭したのか?」
小碓尊の回答は驚くべきものでした。
小碓尊:「夜明け頃に兄が厠に入ったので、待ち伏せして捕まえました。 そして掴んで潰し、手足はもぎ取って包んで投げ捨てたのです」
この小碓尊の激しく荒々しい考え方に景行天皇は恐れを感じ、豪族討伐を命じました。
景行天皇:「西の国で熊曾建が天皇の支配に服することなく存在しているので、秩序が乱れてしまう。 お前は地方に赴いて豪族たちを討伐せよ」
あまりの荒々しさに地方豪族の討伐を明示された第二皇子・小碓尊が後に日本武尊(やまとたけるのみこと)となって活躍します。
手強い相手だった熊襲討伐を成し遂げた日本武尊は、伊勢神宮にて叔母にあたる「倭姫命」から草薙剣を授かったとされています。
さらに陸奥国で大きな力を持っていた蝦夷も支配下に置く活躍をみせ、景行天皇の支配に大きく貢献しました。
「日本武尊こそが天皇なのでは?」と言う説もあるようですが、景行天皇が日本統一を目指している道半ば、故郷へと帰る前に伊勢国能褒野で病が原因で命を落としています。
山辺道上陵
景行天皇の御陵として定められているのは、奈良県天理市渋谷町にある山辺道上陵(やまのべのみちのえのみささぎ)です。
「渋谷向山古墳」と呼ばれる長さが300mもある巨大な前方後円墳で、古事記では以下のように記されています。
墳丘長300メートルの前方後円墳である。
『御陵は山邊の道上にあり』